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セミナー報告:女性の都市への権利 オリンピック開催都市での喪失ーー霞ヶ丘アパート元住人のお話

2017/05/26

2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、さまざまな開発が官民一体となって進められています。2月28日にはメガイベントがもたらす都市への影響を共有するセミナー「女性の都市への権利 オリンピック開催都市での喪失」が開催され、ブラジルでW杯やオリンピックによるファベーラ(スラム街)立ち退き反対に参加したジゼレ・タナカさんからお話を聞きました。そして東京でも、今、オリンピックに向けた立ち退きが始められています。下記に、立ち退きの行われた東京・霞ヶ丘アパートの元住人の方のお話をまとめました。

(以下、霞ヶ丘アパート元住人のお話)

霞ヶ丘アパート

突然回ってきた立ち退きのチラシ

 霞ヶ丘アパート立ち退きの話が始まったのは、2012年の夏でした。
ある日突然、このたび霞ヶ丘アパートは国立競技場建設のためになくなりますと書かれたチラシが回ってきたのです。東京都は後に「そんなチラシは配っていない」といっています。その1か月ほど後に再び同じ内容のチラシが回ってきました。これは確かに東京都が配ったものだそうです。
 2012年8月、霞ヶ丘アパートと近隣の住民が日本青年館講堂に集められ、東京都と日本スポーツ振興センター(JSC)から説明をされました。JSCからオリンピック計画の説明がされ、東京都からは「この場をあけてもらいます」と言われました。つまり「オリンピックのためにどいてください」ということですね。
 皆、唖然としました。しかし、実はその説明会の前に町会の役員たちとの間では話が済んでいたらしいのです。全住民が聞いたのは、このときが初めてでしたので、会場は戦々恐々として、意見もたくさん出ました。しかし、東京都側は「これは国策です」の一辺倒で、何度聞いても「国が決めたことですから」としか言いません。

バラックから文化住宅へ、コミュニティが出来上がった時代

 霞ヶ丘アパートの住人は年寄りばかりです。アパートができる前は、戦争で焼け出された人、住宅を失った人、引揚者などが、あちこちから集まって来て、明治公園周辺にバラックを建てたり焼け残った古い建物を利用したりしながら住んでいました。しばらくして、その周辺に国立競技場をつくることが決まります。当時そこには霞ヶ丘競技場がありました。そこは戦争中、学生たちが送り出されていった場所(戦時中、霞ヶ丘競技場は学徒出陣の壮行会会場として使われた)です。その競技場を新しくつくりかえるために周辺住民は立ち退きを迫られ、その場所に都営アパートもできました。それはちょうど1964年の東京オリンピックのときです。
 当時、地域の人たちはこの立ち退きに対して反発していました。ただ、その場所は古くなった建物や中から壁を押すと外が見えるような兵舎や馬小屋などがごちゃごちゃと並んでいるという状態でした。当初、反対していた住民たちも、その場所に文化的な住宅をつくるという説明を受け、長い交渉の末、最終的には納得したのです。
 当時は住民たちの多くが20代の若い世代で、子どもたちもたくさんいました。引っ越し作業も、みんなで協力すればすぐに済んでしまいます。物もない時代です。家具もありませんし、布団だって十分にない、茶碗だっていくつかあればいい、台所もトイレも共用、そういう生活でしたので、みんなで助け合っていました。向こう三軒両隣で、とんとんとたたけば隣のおばちゃんが「どうしたの」と出てきてくれる。そういうことから始まり、やっと生活が安定し、しっかりとしたコミュニティができていったのですね。

50年後、2度目の立ち退き要求が

 あれから約50年が経ち、当時若かった人たちも今では70~90代になっています。その人たちが再び「どこかへ行ってください」と言われたのです。高齢者にとって急な環境の変化はとても辛いものです。不慣れなことがストレスになるし、それが原因で病気になったりもします。
 2012年8月の説明会で、私は手を挙げて「今日の話は唐突すぎます。これから何度も説明会を開き、どういう計画になっていくのか細かく説明をしてください」と念を押しました。それに対し東京都の担当課長は「これから何回も説明をしてまいります」と言いました。「役員さんたちとも話をしてまいります」と言ったので、「役員さんとの交渉も大事でしょうけれども、全体に話をしていただかないと共通理解ができません」と言いました。ところが、嘘も方便ですね。その場を逃れればいいという感じでしょうか。その後の説明会は移転が始まるまでとうとう1度も開かれませんでした。
 2012年8月、「移転を希望される方は申し出てください」という第1回目の募集が始まりました。募集は全部で3回行われました。私はその募集自体には反対していません。学齢期の子どものいる人や高齢で体の弱った人のなかには早く移転を希望する人もいるだろうと思っていました。早期に応募した人はどんどん引っ越していきました。
 しばらくして、霞ヶ丘から一番近い都営住宅が建てかえで3棟できました。すると、そちらへ移ってくださいという話が来たのです。住民の大半は「面倒くさい」「もういいや」「あきらめよう」という様子でした。私は1938年生まれです。「お上の言うことには従わなければならない」と考える人が多い世代ですね。戦争の真っただなかに育っており、まさに教育勅語を暗記した時代でした。「ものを言うな」という時代に育ってきた人間が、いまさら意見を言えるでしょうか。心の中はいろんな思いがいっぱいあります。「私は動きたくない」「私はここで死にたい」という思いを持っていても、それを言えない人が大半です。
 それでも私たち何人かは、このままではいけないから東京都に意見を言おうと、東京都知事あてに何度も要望書を出しました。しかし、返事は一切返ってきません。それならばと、記者会見をやることにしたのです。大勢来たマスコミの方のなかには「これが本当に住民なのか」と浮かぬ顔をしている人もいました。メディア関係者には、もう少しきちんと弱者の立場を伝えてもらいたいと思います。弱者は切って捨てるような社会になっていることが、私はすごく辛いです。
 そうこうするうちに、町内会の抑え込みが始まりました。町会の掲示板に「都に交渉している人がいるけれども、皆さん動揺しないでください。私たちは着々と移転へ向かってまいります。ご心配なきよう」というような張り紙がしてあったのです。同じような内容のチラシを東京都が張ったり、町会が張ったりしていました。
 掲示板を見た人たちは、誰が反対しているのかを噂します。反対している人間が悪人になってしまうわけですね。私は直接何か言われたことはなかったのですが、後ろ指を指されていただろうなとは感じています。今まで挨拶もしなかった人が、私のそばへ来て「反対したらだめ、反対するとだめ」と呟いていたことがありました。おそらく、誰かに指図されてきているのだと思います。
一方で、支えてくださる人も集まってくれました。建築家や大学の先生などいろいろな方がおり、その人たちと「霞ヶ丘アパートを考える会」を立ち上げたのです。DSC05690

コミュニティを壊された、でも絶対にあきらめない

 2015年、霞ヶ丘から一番近い都営住宅に新設された3棟の部屋決めがはじまりました。世帯数に応じた部屋数が言い渡されましたが、希望した全員が入れる数はありません。元々そこに住んでいらした方々で新棟に入る予定の人以外の部屋は抽選でした。外れた場合は、ずっと遠くの場所に移転しなければなりません。当たった人と外れてしまった人が出てしまうので、また人間関係が壊れてしまいます。
 私が一番悔しかったのは、コミュニティを完全に壊されたことです。仲良く暮らしていたのに、反対派・賛成派で分断させられ、部屋割りでも振り回され、バラバラになってしまいました。行政はコミュニティを壊しているのです。私にとってそれが一番悔しいことでした。ですから、私はこの動きに絶対に反対する、年齢なんか関係ないと思ったのです。
 何人かの方たちと闘って、最後に残ったのはわずか数人でした。わずかでしたがあきらめませんでした。そして2016年1月には全170世帯が立ち退きました。立ち退きは納得したからではなく、仕方がなかったからです。
 ある時、引っ越したおじちゃんが私のところにやって来て、「毎日毎日、かあちゃんと喧嘩ばっかりしている」と言うのですね。「引っ越し先の家のなかで、熱いお湯を入れたやかんもってうろうろされちゃうから、はらはらしていられないから、おれは毎日こっちに戻ってくるんだ」と話していました。それぐらい引っ越した先の新棟は狭いのです。持っていた荷物もほとんどを捨てなければならないといいます。
私は「捨てる」という言葉が嫌いなのですね。いらないから捨てるというのは、いらないと思わせられているわけですよ。70年も80年も生きて、蓄えてきたものです。年寄りは、はっきり言って捨てられないのです。古いものほど大事な命です。家族や大切な人たちと共に生活してきた、みんな思い出のあるものばかり。汚い、古いといわれようが、修繕してでも使い続けていく、そういう心が本当は大事ではないでしょうか。
 下駄箱が狭いといった元住人に「靴なんか1足あればいい、2足も一緒に履いて歩くんじゃない」などと言った人がいました。本当に腹が立ちました。金持ちが高層ビルをがんがん建てている後ろでは一生懸命に細々と生きている老人がいるのです。都営住宅だからってバカにしたのでしょう。でも都営住宅に住んでいる人間は「低レベル」だという人がいたら冗談じゃないです。ここまで築いてきたのは誰のおかげだという気持ちもあります。一生懸命働いて、その人なりに税金を納めた結果、今の社会があるのです。それなのに死ぬ間際になって「出ていけ」と言われるということが許せないのです。今、思うとそんな思いが私の抵抗する力になりました。

東京都の告訴、そして裁判は和解へ

 2015年10月ごろから東京都が1週間に2~3回も立ち退き要請を持ってくるようになりました。都知事名の公文書も何度も送られてきました。1度などは、暮れも押し迫った12月28日に文書を送ってきて、「1月5日までに出ていただけない場合には、しかるべき措置をとります」とありました。自分たちはお正月で休んでいるのにですよ。年が明けてからも何回も来ました。そのときに私は「もういいです、あたし、ここにいますから」と言ったんです。「あなた方は、私が出ないと困るんでしょう。困るんだったら、どうぞ裁判にかけてください。私たちは間違ったことは言ってない、あなたがたが間違ったルールで話をしてるんだから、そこは筋を通してもらわなきゃ納得できないですから」とも伝えました。
 2016年8月、東京都は告訴してきました。でも、裁判官は非常に人間的な人で、私たちに理解を示してくれました。結果、東京都が敗訴、そして和解になったのです。裁判では住民である私たちの意向を汲むように東京都に言ってくれました。そして、私も希望を出し、ようやく次の行き先が定まり、引っ越しました。
 この間、非常に腹も立ったし、たくさん勉強もしました。住民の人権の問題というのは、1人ひとりが闘わなければならないし、みんなで声を挙げなければいけないと思います。どんな小さな声でも挙げることで、仲間が見つかります。多くの人たちは大きな権力が目の前に来るとめげてしまうと思います。でも、その大きな権力側が間違っていることはあるのですから、やっぱり仲間を見つけて闘っていかなきゃいけない時があると、今、しみじみ感じています。

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