これまでの歴史

「アジアの女たちの会」

アジアの女たちの会ロゴ アジア女性資料センターの前身は、1977年に発足した「アジアの女たちの会(Asian Women’s Association: AWA)」です。日本人男性による買春観光に反対してアジアの女性たちと一緒に行動した日本の女性たちが、アジアへの軍事的・経済的侵略に加担しない女性解放の運動をめざしてたちあげました。 AWAはその17年間の活動のなかで、アジアの政治犯支援、日本企業のアジア進出、開発援助、観光開発と人身売買、軍事化など、さまざまな問題について運動を展開したほか、機関誌『アジアと女性解放』の刊行や連続セミナー「女大学」の開催などの活動を行ってきました。

北京国際女性会議の前夜である1994年末、AWAの設立メンバーのひとりであったジャーナリストの松井やよりさんが朝日新聞社を定年退職するのを機に、より強固な組織的基盤をもってグローバルに活動をする方針を固め、翌年(1995年)に「アジア女性資料センター(AJWRC)」を設立、組織改変を行いました。2000年には国連協議資格を取得しました。アジア女性資料センターは、AWAの設立以来の理念を引継ぎ、姉妹グループや国内外の女性団体・市民団体と密接に協力するNGOとして活動しています。

 

アジアの女たちの会 活動履歴

内容
1977 アジアの女たちの会結成、「アジアと女性解放:私たちの宣言」。女大学開始(4月)、「アジアと女性解放」発行開始(6月)、東南アジアの人権と日本-八月行動委員会参加(8月)、アジアの政治犯釈放を求める大使館デモ(8月)、「しばられた手の祈り」上映会
1978 東一紡績・阪本紡績に抗議、三里塚空港反対運動参加
1979 アジア女性解放の集い(3月)、女大学「日本の中のアジア」
1980 買春観光に反対する集会とデモ(8月)、’80買春観光に反対する集会とデモ(11月)、戦争への道を許さない女たちの集会、連絡会結成(12月)
1981 ヨコスカ基地見学(6月)、韓国政治犯家族を励ます緊急カンパ、戦争への道を許さない女たちの集会(5、8、12月)、教科書問題に抗議する市民の集会参加(9月)、防衛庁軍拡抗議デモ参加(10月)、優生保護法改悪に反対する集会参加(11月)、女大学「戦争と私たちとアジア」
1982 “買春”を考える学習会
1983 優生保護法改悪に反対する集会(3月)、なしくずし改憲を許さない女たちの集会(5月)、国内版買春ツアーを許さない集会(11月)
1984  ESCAP民間フォーラム買売春を考える分科会開催(3月)、男女雇用機会均等法・労基法改悪を許さない全国決起集会に参加(5月)、アジアフェスティバル参加(7月)
1985  反戦集会(5月)、8・15反戦マラソン演説会(8月)、戦争責任を考える戦後40周年のつどい開催(8月)、女大学「開発と女性」
1986  「問い直そう援助を!市民集会(5月)、女性・人権・開発(WHID)部会発足
1987  国際熱帯林シンポジウム(3月)、アジアの女たちの会10周年記念集会
1989  立ち寄りサポートセンター開始、PP21アジア女性フォーラム参加(8月)、タイ女性の友発足
1990  アジアの観光と児童買春国際会議(タイ)参加(4・5月)、開発・援助と女性シンポジウム(5月、10月)
1991  町屋日本語教室開始(1月)、湾岸戦争への抗議(2月)、Asia Feminist Art Festival(3月)、開発・援助と女性シンポジウム(4月)、フィリピンでの日本人男性の買春に抗議(6月)、アジア出稼ぎ女性の実態を考える会共催(6月)、慰安婦問題行動ネットワークに参加(10月)
1992  国連世界人権会議に向け世界請願署名運動(5月)、タイスタディツアー(8月)、女性の家サーラー開設(9月)、15周年記念シンポジウム(11月)、PP21参加、出稼ぎ女性ワークショップ開催(タイ)
1993  女性の人権アジア法廷(3月)、第1回東アジア女性フォーラム(10月)、アジア女性資料センター設立準備会議(12月)
1995  国際会議&ワークショップ「ODAとアジア女性」(3月18-20日)

※アジア女性資料センター設立後の活動記録は「資料館」をご覧ください。

 

アジアと女性解放:私たちの宣言

日本が明治維新以来なしとげた「近代化」は、すなわちアジア侵略の歴史であり、この百年の間を生きてきた女たちもまた、侵略に加担したアジアへの加害者であった―。この事実を、私たちはいまようやくたたかうアジアの女たちから学びつつあります。

自立と解放を願いつつも、国是とされた富国強兵策の下で、日本の女たちは、「女工哀史」に代表される安価な労働力として日本資本主義の発展を支え、銃後の守りとしての侵略戦争の一翼を担ったのでした。封建的家父長制のもとで、自らの人生を選ぶことも許されず、差別され、抑圧され、忍従の生を強いられながら―。

敗戦後の日本は、アメリカ陣営の一員としていち早く復興をなし遂げ、朝鮮、ベトナムで流された血の上に高度経済成長の時代をつくり上げました。この時代を生きている私たちは、祖母たち、母たちとどれほど違う生をいきているでしょうか。女であるが故の差別、抑圧は、今なお私たちの周囲にいく重にもはりめぐらされています。国内では自立した生き方をはばまれながら、アジアにたいしては、経済侵略一担を担わされる―こうした今日の女の状況は、実は、戦争の女のあり方と本質的にどこがちがうでしょうか。

今日、東南アジアや韓国など第三世界で、女たちは、民族の解放と女の解放ふたつのたたかいに起ち上がっています。このふたつは切り離せないことを彼女たちの前に示しています。
1975年、国際婦人年メキシコ会議の席上で、第三世界の女たちは、「もっとも差別されている女性とは、子どもたちにパンも教育も医療も与えてやれない母親たちである」と叫びました。この声に私たちは耳をふさぐことは許されないのです。なぜなら、このような飢えをつくり出しているのは、日本も含めた先進工業国であり、世界中の市場の独占をめざす巨大企業なのですから。

かつて、中国、朝鮮半島をはじめアジアの国々で、焼き、殺し、奪い、女たちを犯す侵略の先兵となったのは、私たちの肉親であり、友や、恋人でした。そして今、私たちはこれ以上夫や恋人を経済侵略、性侵略の先兵として送り出す女たちであり続けることは拒否しようと思います。この決意なしには、私たち自身の解放は決して現実のものにならないでしょう。私たちはいまここで、アジアの姉妹たちに深い謝罪の気持ちを表すとともに、彼女たちのたたかいに学び連帯する日本の女たちのたたかいをつくり上げる決意を新たに、出発すことを宣言します。
朝鮮の女たちが、日本の支配に抵抗し生命をかけた三一独立運動の記念すべきこの日、新たな一歩を踏み出さんとする私たちは、このたたかいの輪を、しっかりと広げていきたいと思います。

1977年3月1日
富山妙子 湯浅れい 松井やより 山口明子 安藤美佐子 五島昌子 加地永都子

 

センターの紹介